青柳堂の歴史は古く、文政二年から筆を造り始めたと記録が残る。
当時の江戸では鶴屋南北、葛飾北斎が活躍、江戸文化が大きく開いていた頃で、尾張では德川斉朝が藩主を勤めていた。斉朝は官位昇進などにおいては、将軍の縁者ということもあって異例の速さで遂げている。斉朝自身は宗睦のように有能ではなかったが、家臣からの封書による政策提言を受けつける制度を先代から継承して実施したほか、藩校・明倫堂の学制改革、文化2年(1805年)12月には倹約令を出した。

江戸時代の筆記具といえば毛筆(他に角筆と呼ばれる紙に凹みをつける筆記具も広まっていた)で、この筆も関西と関東で違いがあった。関西で作られる「固め筆」に対し関東の筆は「さばき筆」。仙台は尾張からの参勤交代に合わせてよりが江戸へ上り、江戸の技術・技法を学び、江戸筆「さばき筆」を名古屋で造りはじめた。

なお、「固め筆」は筆先の半分から3分の2を崩して使うのに対し、「さばき筆」は軸際まで墨をつけて使用するのが特徴。



 

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